로그인「別の部屋なら、いいです」 思っていたより早く、返事が出た。 煌を意識しすぎているようで、恥ずかしくなったが、煌は少しだけ表情を緩めた。 「もちろんです」 「ありがとうございます」 「何より大事なことですから」 一時間後、糀は店の前に止まった車へ乗った。 着替えは一組だけ。汚れてもいい靴と、料理ノート。三回分の試作記録も鞄へ入れた。 服は動きやすければ何でもいいと思っていたのに、鏡の前で紺色と白のニットを二度も合わせ、結局、顔が明るく見えた白を選んだ。 黒い車が走り出す。後ろから、警備の車が一台ついてきた。 「出張なのに、警備まで必要なんですか」 「九条は、私たちより先に牧場へ連絡していました」 煌はそれ以上言わなかった。 玲奈の一言で客を失い、店を閉めた料理人もいる。 しかも、玲奈のそばにいた女性は、糀の店へ撮影と録音のできる機器を仕掛けていた。 勝負の日までに、あと何をされるのだろう。 そう考えると、少し怖くなった。 糀は、もう警備は必要ないとは言えなかった。 街の明かりが少なくなり、窓の外が暗くなっていく。 「牧場へ行った時のこと、本当に覚えていないんですか」 「景色は、ほとんど」 煌は窓の外を見たまま答えた。 「濡れた草の匂いと、牛舎の柵が冷たかったことだけは覚えています」 「祖母のことは?」 しばらく返事がなかった。 「食べられない子を、好き嫌いで片づけないで、と」 煌の声が低くなった。 「誰に言ったのかは覚えていません。祖父か、牧場の方か。ただ、何も食べられない私を、澄江さんがかばってくれたことだけは覚えています」 祖母らしい言葉だった。 料理を残す子を叱る前に、なぜ食べられないのかを考える人だった。 「おばあちゃんは、煌さんに食べてもらえる肉を探していたんでしょうか」 煌は驚いたように糀を見た。 「それは、考えたこともありませんでした」 煌はずっと、祖母の味を探していた。 けれど祖母も、幼い煌が食べられる味を探していたのかもしれない。 しばらく黙ってから、窓の外へ目を戻した。 「もし、そうなら、私は知りたい」 九条に勝つことは大事だ。 けれど今は、それだけのために牧場へ向かっている気がしなかった。 車が山道へ入る前に、休憩の
「提案……ですか?」 「はい。勝負までは、二人で料理に集中しませんか」 「……二人で?」 すぐには頷けなかった。煌と二人で、と聞けば、まだ終わっていない婚約のことを思わずにはいられない。 けれど、ここ数日は料理を考えようとしても、美咲や玲奈のことが頭から離れなかった。料理ノートは開いたまま、何も書き足せていない。「証拠は私が守ります。料理の答えも、一緒に探します」 煌が、カウンターに置かれた料理ノートへ目を落とした。「あなたの料理を守りたいんです」 婚約を隠していたことは、まだ許せない。それでも今は、美咲や玲奈ではなく、食べてくれる人のことを考えたかった。「分かりました。そうします」 煌は力強く頷いた。「勝負の料理は、もう試作しましたか」 「三回です」 玲奈に祖母の紙を見せられたあと、糀は店を閉めてから、少量の和牛で条件を変えて試していた。「一回目は、若味噌六、古味噌四で四十八時間。二回目は古味噌を減らして、三回目は漬ける時間を短くしました」 「結果は?」 「一回目は味噌が強すぎて、肉の味が消えました。二回目は味がぼやけて、三回目は肉が硬いままでした」 「原因は?」 「配合と時間だけではないと思います。……肉かもしれません」 九条が持っているのは、祖母が失敗した途中の配合だ。棚の裏の機器で、店の中の会話や試作も盗まれたかもしれない。 けれど、同じ配合でも、肉の脂や水分が違えば、麹の働き方は変わる。 糀は祖母が残した仕入れ帳を開き、和牛の試作頁と同じ年の仕入れを追った。「あ……」 祖母も、最初の三回は、いつもの仕入れ先の肉を使っていた。だが、三つ目の失敗印のあと、山あいにある峯岸牧場へ仕入れ先を変えている。 その肉を使った次の頁には、失敗印がなかった。 代わりに、祖母の字で《もう少し》と書かれていた。 祖母がこの牧場を選んだ理由を知る必要があった。 今も同じ場所に牧場がある。糀はすぐに電話をかけた。「三浦澄江の孫です。祖母が昔、そちらから和牛を仕入れていたようで――」 「その話なら断る」 年配の男性は、糀が最後まで話す前に言った。「昨日も九条ホテルから電話が来た。今度は孫か。澄江さんの名前を出せば、誰にでも昔のことを話すと思うな」 九条は、もうここにも先回りしている。「本当に孫です。店も私が受け継いで
「以前、九条家の会合で見ました。……玲奈さんのそばにいた女性です」 やはり、九条とつながっていた。 祖母の客を装って店へ入り、棚のそばに立った女が、玲奈のそばにもいた。偶然なわけがない。 「九条ホテルの人なんですか」 「そこまでは、まだ分かりません。ただ、偶然この店へ来た人ではない」 煌は秘書へ向き直った。 「機器と映像を渡してください。設置した女性の身元、送信先、九条との関係を調べます」 設備担当者が機器を運び、秘書も映像を持って店を出た。千尋も、旧「糀ごよみ」の記録集めを続けると約束し、このあと用事があるからと帰っていった。 二人きりになると、煌は糀を見た。 「料理勝負は中止してください」 その言葉を聞いた瞬間、糀は少しだけほっとしてしまった。 「相手は、あなたの店に機器を仕掛けた可能性があります。何を盗られたのかも、まだ分からない。九条が会場と生配信を用意する勝負へ、このままあなたを出せません」 煌の言うことは正しかった。 本当は、怖かった。自分の店で、知らない誰かに見られていた。料理だけではない。客の名前も、千尋の話も盗まれたかもしれない。 そのうえ、九条が用意した厨房に立ち、全国へ顔と料理をさらす。そこでまた何をされるのか分からない。 煌に任せれば、もう九条の舞台へ行かなくていい。祖母の名は弁護士に守ってもらえる。客をこれ以上巻き込まずに済む。 中止にした方がいい。そう思う自分もいた。 けれど、テレビ画面に映った美咲の姿が浮かんだ。 ここで終われば、美咲は祖母の味を受け継いだ料理人として残る。祖母から料理を教わった糀ではなく、祖母の厨房に一度も立ったことのない美咲が。 配信に出たいわけではない。怖さも消えていない。それでも、あの嘘を残したまま終わることはできなかった。 「……それが正しいことは、分かっています」 「なら」 「でも、中止にはしません」 煌の顔が険しくなった。 「どうしてですか」 「今、煌さんが勝負を止めたら、私は料理で勝てないから、神楽坂社長に止めてもらったと言われます」 「事実ではありません」 「事実でなくても、テレビを見た人には分かりません」 全国放送で、美咲は祖母の味を受け継いだ料理人として紹介された。玲奈なら、勝負の中止さえ糀が逃げた証拠として発
煌は、すぐには答えなかった。 「まだ、断定できません」 それでも、心当たりがない顔には見えなかった。 設備担当者は黒い機器を透明な袋へ入れ、棚に残った線と穴を撮影した。 「記録は残っていますか」 「本体に残っている可能性があります。送信先も調べます」 千尋が自分の腕を抱いた。 「私が、仕事のことを話した時もですか」 あの日、千尋は雨に濡れた茶封筒を膝に置き、温かい椀を両手で包んでいた。最初は震えていた指が、食べ終える頃には止まっていた。 仕事で失敗したこと。食事を取れず、胃を壊したこと。糀の料理に救われていたこと。千尋が泣きながら話してくれた言葉は、知らない誰かに聞かせるためのものではない。 あの時間まで、見られていたのだろうか。 「まだ、何が残っているかは分かりません」 糀はそう答えるしかなかった。 料理を盗まれたことにも腹が立つ。けれど、三席しかない店で千尋が打ち明けたことまで盗まれていたとしたら、もっと許せなかった。 予約帳も、この棚の下で開いていた。客の名前と来店日まで写っていたら、糀だけの問題ではない。 その時、糀のスマートフォンが震えた。 九条玲奈からだった。 《同じ牛肉、別の厨房、料理人名を伏せた審査を受け入れます。ただし、対決は九条ホテル公式チャンネルで生配信します》 どうして、今なのだろう。 糀は透明な袋の中の黒い機器を見た。 生配信だけは、最初の招待状から譲らないらしい。 糀はメッセージを保存した。勝負は受ける。けれど、祖母の名前を好きに使うことまで認めたわけではない。 「置いた人を調べられますか」 「調べます」 答えたのは煌だった。 「前に店を調べた時、見つけられませんでした。今度は設置した人も、記録を受け取った人も、必ず見つけます」 低い声だった。煌の手は、固く握られていた。 「煌さんの責任ではありません」 煌が糀を見た。何かを言いかけたが、結局、頷いただけだった。 「私も確認します」 守ってもらうだけで終わりたくなかった。この店へ入った人間の顔なら、糀の方が覚えている。 「……もしかして、修司たちが店へ入った日ではないでしょうか」 糀は、あの日の騒ぎを思い出した。 店の中を荒らされ、通りには人が集まった。祖母の客だと名乗る、見覚え
煌は美咲へ顔を向け、まっすぐ見た。 「婚約は解消します。私が愛しているのは、糀さんです」 その声に迷いはなかった。 「家同士の問題もあるため、きちんと終わらせるには時間がかかります。ですが、結論は変わりません」 婚約はまだ終わっていない。それでも、美咲の前で迷いなく言い切ってくれたことが嬉しくて、体がじんわりと温かくなった。 隣で、千尋が少し驚いた顔をしたあと、糀に向かって微笑んだ。 美咲の笑みが消えた。 煌がさらに何かを言おうとした。 「煌さん」 糀は首を横に振った。 煌は口を閉じ、糀を見た。 煌に庇われてばかりではだめだ。 ここは、自分で言おう。 糀は美咲へ向き直った。 「三席しかないって笑いますけど、美咲さんのお店は、あれだけ席があってもがらがらじゃないですか」 「何ですって?」 「それに、祖母に会ったこともないのに、知ったようなことを言わないでください。九条ホテルに選ばれたからって、祖母から何も習っていないことは変わりません」 糀は一度、口を閉じた。 怖くないわけではない。 それでも、大きく息を吸い、美咲をまっすぐ見た。 「卑怯なやり方には、負けません。勝負します。祖母の味を受け継いだのが誰なのか、私の料理で証明します」 美咲は一瞬、気圧されたように口を閉じた。 美咲が何か言い返そうとした時、手にしていたスマートフォンが鳴った。 「はい、高橋です。……九条ホテルへ? 今からですか」 電話を切ると、美咲は急に得意そうな顔になった。 「九条ホテルから呼び出しよ。私がいなければ、勝負の料理が進まないもの」 美咲は向かいの店へ戻り、慌ただしく戸に鍵をかけた。 「あなたの相手をしている暇はないわ。せいぜい、今のうちに強がっていれば?」 そう言い残し、早足で通りを去っていった。 美咲の姿が角の向こうへ消えるまで、煌は何も言わなかった。 それから秘書へ目を向ける。 少し離れた場所で待機していた設備会社の車が、通りへ入ってきた。 車から降りてきた顔ぶれを見て、糀は目を見開いた。 秘書だけではない。設備会社の作業着を着た男性が三人、その後ろには、スーツ姿の責任者らしい男性もいる。 「社長。現場はこちらで確認いたします」 「私も見ます」 煌が短く答えると、
糀につられるように、千尋も店内を見回した。 「何か、心当たりがあるんですか」 糀は答えず、スマートフォンを持って立ち上がった。 「少し、外で話しませんか」 戸を閉めて通りへ出てから、新しい店の名前を決めた日のことを話した。 《澄乃糀》という名前は、煌と店の中で決めた。その場で登録しただけで、まだ一つも投稿していなかった。それなのに、美咲からすぐに削除するよう連絡が来た。 「美咲さんに、名前を話した人がいたのでは?」 「煌さんは話していません。私もです」 名前だけなら、偶然見つけたと言われるかもしれない。 けれど、雨の日の料理まで同じだった。 「高森さん。あの日の料理のことを、誰かに話しましたか」 「友人に、美味しいものを食べたとは話しました。でも、料理名も作り方も話していません」 千尋は写真も撮っていない。煌も、出された料理を食べただけだ。 千尋が、『糀ごよみ庵』の公式投稿をもう一度開いた。 料理へのこだわりとして、こう書かれている。 《根菜は玉ねぎ麹と一緒に弱火で煮ています。焼きおにぎりは甘酒味噌が焦げやすいので、表面だけを軽く焼きました》 「これも、あの日、三浦さんが私に説明してくれた通りです」 その言葉は、料理を出した時、千尋の前で話した。昔の「糀ごよみ」にも、新しいアカウントにも書いていない。 料理を見ただけでは、火加減まで同じ言葉になるのはおかしい。 糀は店の前から、閉じた引き戸を見た。外からは、厨房もカウンターも見えなかった。 「盗聴とか盗撮とかされてるんでしょうか」 「調べてもらいます」 煌へ電話しようとして、画面の上で指が止まった。 また、婚約者のいる人に頼っていると責められるかもしれない。 けれど、煌は勝負を手伝いたいと言ってくれた。 今は、その言葉を信じよう。 糀は一度息を吸い、煌の名前を押した。 呼び出し音が一度鳴っただけで、低い声が聞こえた。 「煌さん。店のことで、確認したいことがあります」 雨の日の試作と、新しい店の名前が美咲へ漏れていたことを話す。煌は途中で口を挟まなかった。 すべてを聞き終えると、短い沈黙があった。 『あの人なら、やりかねません』 誰のことなのだろう。 糀が尋ねる前に、煌の声が低くなった。 『気づかなかったふ